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豆知識 御菓子に関する様々な豆知識をご紹介致します。
成人の日 ひな祭 入学・卒業 端午 敬老の日
お中元 和菓子の日 まんじゅう 彼岸 節分
土用 熨斗(のし) 祝い餅 七五三 七草
旧暦月の説明 五節句 二十四節気 六曜  


成人の日

成人の日は昭和23年の国会にて制定されました。その由来としては大きく2つあると言われています。


1つは小正月に人生の通過儀礼をする風習に因むとされるという説ともう1つは昔に元服という儀式がありまして数え年で12歳~18歳くらいの男の子の成人の儀式だったのですが、これをある一定の年齢に達した最初の満月の夜に行うことが多かったようなのです。


つまり、最初の満月である1月(睦月)の十五夜(満月)にするというのが結構広まっていたらしいのです。旧暦の1月15日が元服をする日だったので、新暦にするときも1月15日を成人の日にしたと言われています。


成人の日の御菓子 >> デュエット(成人用)

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ひな祭

ひな祭は3月3日、女の子の成長や幸福を願う行事で「桃の節句」とも言います。
昔、中国では3月3日に「ひと形」(人形)を作ってこれで体を撫で、身のけがれや災いを人形に移して川に流して厄払いをするという風習がありました。


江戸時代から、女の子の人形遊びと結びつき「めびな・おびな」ばかりでなく、他の人形や道具類まで、ひな段に赤いもうせんを敷いて華やかに飾るようになりました。「ひな人形」ということばもその頃から使われ出したといわれています。


ひな祭の御菓子 >> 雛五ッ引雛の宴雛デュエット 三段重ね

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入学・卒業

子供の成長の筋目となる入園、入学、進学、は社会への第一歩。親や祖父母、親しくされている知人や友人などごく親しい間柄の人たちでお祝いをされる方が多いようです。


入学の御菓子 >> 入学(デュエット入学用

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端午

端午の節句の歴史は古く、その起源は、奈良時代からと伝えられています。端午というのは、月の初めの午(うま)の日という意味の言葉です。それが、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、いつのまにか、毎月の五日をさすようになり、やがて5が重なる重五の日、つまり5月5日に大切な厄払いの日として定着します。


端午の節句は、男の子の厄除けと健康祈願のお祝いとしての行事が、庶民の間にも定着して行ったお祝いです。男の赤ちゃんのたくましい成長を願う行事、いうなれば鎧兜や五月人形や鯉のぼりは、赤ちゃんに降りかかろうとする災厄や魔物を除けてくれる魔除けであり、災厄除けの守り神のようなものと言われています。


柏の葉は、秋に落葉することがありません。そのまま冬を越し、春が来て新芽がでてから落葉します。このことから、子孫を絶やさない縁起ものとして武士階級に珍重されてきたのが柏餅の由来とされています。
ちまきの起源は、楚国の有名な愛国詩人屈原の命日です。屈原は革新的な主張をしたために腐敗勢力の反対にあい、楚の懐王に追放されました。そして、楚の国の滅亡は旦夕に迫った時、恨みを呑んで現湖南省の汨羅河に、石を抱いて身を投じ、国に殉じました。屈原が川に身を投じた知らせを耳にした人々は、船を出してその屍体を捜しましたがどうしても見つかりませんでした。人々はこれを哀しみ竹筒に米を貯え、水に投じて祭祀しました。これがちまきの由来と言われています。


端午の御菓子 >> 柏餅ちまき端午の祝菓子出世鯉

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敬老の日

9月15日は1966年に「敬老の日」と定められました。
もともとは「としよりの日」でしたが、呼び方の問題で1965年に国民の祝日と定められ、「敬老の日」とされました。
敬老の日の由来は大きく2つあります。

(1)聖徳太子説 聖徳太子が大阪に四天王寺を建てた時、ここに四天王にあわせて、敬田院・ 悲田院・施薬院・療病院の四箇院を設置したといわれています。その内の 悲田院というのが今でいう老人ホーム。この悲田院ができたのが9月15日であったからといわれています。
(2)養老の滝説 美濃の国にお酒の好きなおじいさんと、孝行な息子がいました。しかし、 びんぼうなので、息子はおじいさんにあまりお酒を飲ませてあげることができませんでした。この息子はきこりをしていたのですが、ある時足を滑 らせて谷間に落ちたところ、そこに酒の流れる滝があるのを見つけました。 息子は喜んでこの酒を持ち帰り、おじいさんにたくさんお酒を飲ませてあげました。そのことを聞いた元正天皇はその地に行幸、そのきこり を役職に取り立ててやるとともに、これを瑞兆として11月17日元号を養老と改めたとのことです。
この故事にもとづき、全国的に9月中旬頃に地域 のお年寄りを招待して敬老会を開くということが以前から行われており、敬老の日になったといわれています。

「敬老の日」は、これまでに様々なかたちで社会のためにつくしてこられた高齢者の功績をたたえ敬愛し、長寿を祝いながら、その歩みや心を受け継いで、それぞれが平和な家庭や明るい社会を築いていこうという願いをこめた日なのです。


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お中元

お中元の由来
古代中国には道教の天神信仰があり、上元(1月15日)、中元(7月15日)、下元(10月15日)の三元の日に天神を奉り身の汚れを清めました。上元の月には上元生まれの天官(天神さま)を、中元の日には中元生まれの地官(慈悲神さま)を、下元には下元生まれの水官(水と火を防ぐ神さま)の三官をまつり、この三官のうち7月15日の中元の慈悲神様が仏教の「盂蘭盆会」(お盆)の行事と結びついたと言われています。中元だけが日本に伝わり、盆と混じり合い、仏に供えるお供物を親戚や隣近所に贈る習慣となったようです。


現在行われているお中元は、1年の上半期の区切りの意味で、6月下旬から8月上旬までの間に、日ごろお世話になっている方に贈り物をします。


お中元の御菓子

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和菓子の日

平安時代、仁明天皇が嘉祥元年(848)の夏、神託にもとづいて6月16日に16の数に因んだ菓子を神前に供え、疫病除けを祈ったと伝えられています。


<嘉祥菓子>は、鎌倉時代に始まり、江戸時代には、嘉定通宝の「嘉通」が勝つに通じる縁起が喜ばれ、6月16日に嘉定通宝16枚で菓子を求めて食べ、これを嘉通の祝儀と呼んできました。
このように古来から6月16日に<嘉祥菓子>を賞味すると「健康・幸運を招き、災いを祓う」といわれています。


私たちの暮らしの中にいきづいてきた伝統ある和菓子の佳さを見つめたい、<嘉祥菓子>の歴史絵巻を21世紀に受け継いでいきたい。この願いをもとに、6月16日を「和菓子の日」といたしました。

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まんじゅう

和菓子はその水分の含有量によって『生菓子』、『半生菓子』、『干菓子』と大きく3つに分けられます。饅頭はほとんどが生菓子の部類に入ります。
その饅頭の由来は14世紀に日本に渡って来た中国の禅僧であった「林浄因」によって確立されたと言われます。


それより以前にも饅頭は中国に留学した禅僧によって伝えられてはいましたが、その当時の饅頭は今のような小豆の餡ではなく、野菜や肉などが入った現在の肉まんのようなものだったようです。
「饅頭の神様」といわれる林浄因によって独自に工夫された饅頭はその当時の上流階級で広まっていた茶を飲む習慣とあいまって、茶菓子としての地位を確立しました。そしてここから新しい和菓子の歴史も始まったようです。


中国での饅頭の起源として有力な説としては、三国時代の蜀の大軍師・諸葛亮孔明が創ったものといわれています。当時の南蛮(今のベトナム)では、河の氾濫を沈めるために、人間の頭を供えて祀る習慣があった。それを聞いた孔明は、麺(小麦粉)で人の頭の形を作り、羊や豚の肉を混入して、それを人間の代わりに供えたということです。

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彼岸

彼岸は別名『彼岸会(ひがんえ)』ともいい、春分の日、秋分の日を中心に前後三日、合わせて七日間のことをいいます。一般的にこの期間に先祖供養が行われます。


最初の日を「彼岸入り」春分の日を「中日」最後の日を「彼岸の明け」といいます。彼岸とは仏教でいう俗世界に対する佛の世界のことで現世に対してあちら側という意味です。春分の日、秋分の日は太陽が真西に沈むので、真西には極楽浄土があるという仏教説から、先祖の霊を供養する仏事が行われるならわしとなりました。


この時期にお寺では七日間に渡って彼岸会(ひがんえ)が行われ、家庭でも先祖の霊を供養するために、仏壇にお供え物をしたり、お墓参りをします。また、仏壇がある家では彼岸前にでも掃除をし、花などを生け、彼岸だんごやおはぎ(ぼたもち)などをお供えします。春は「ぼたもち」、秋は「おはぎ」といいますが、実は同じ物で、これは季節の花に関係しています。春は牡丹、秋は萩にたとえられ「ぼたもち」と「おはぎ」と呼びます。


彼岸の御菓子 >> 彼岸だんご

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節分

旧暦ではこの日がちょうど冬の最後であり、一年の終わりの日にあたり、新たな年を迎えるにために災厄や邪気を祓い福を招くことをしました。


節分の日に行う行事で一般的なのが豆まきで江戸時代より都会の寺社でもこの除災神事を行っています。豆まきの由来は平安時代の大晦日に行われた追儺(ついな・鬼やらい)であり、この儀式は中国から伝来したもので、疾病や災害を鬼に見立てて、桃の弓、葦の矢で追い払い新年を迎えたというものです。
これがまめに変わった理由として、昔、鞍馬の山奥に鬼がおり、毘沙門天が「鬼退治には三石三斗の豆で鬼の目を打て」と教えたという説があります。鬼の目を打つので魔目、豆は魔滅にも通じるとされています。


また、春の初めには神が訪れて祝福を与えてくれるという信仰が古くからあり、そのため家のお祓いをするという行事と習合し、現在の慣わしに発展したと考えられています。


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土用

土用とは『土旺用事』の略で、五行説による季節の割り振りで四季に配当(冬は水、春は木、夏は火、秋は金)されなかった「土」の支配する時期として各季節の末18日ないし19日間のことを指します。
現在は夏の「土用の丑」が残っているだけのような感じになっています。


土用の御菓子 >> 土用餅

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熨斗(のし)

おしるし


贈り物の添え物ことであり、熨斗鮑(のしあわび)の略のことです。
熨斗鮑は、鮑の肉を薄く長く剥いで乾燥してのばしたもので、長くのびるところから永続発展する意味でめでたいとされました。
古来日本では吉事などの祝い膳には魚などのなまぐさがなければならず、熨斗鮑はこのなまぐさを代表するものでありました。贈り物にも吉事の際には熨斗鮑が添えられました。今日でも婚礼などの引出物には用いられるが、多くは現物の代わりに、色紙を折って中央に細長く切った黄色い紙を挟んだ熨斗や、印刷されたものを用います。細長い黄色い紙が熨斗鮑の代用で、省略して「のし」と書くこともあります。


懸け紙(かけがみ・掛け紙、)は「のし」や「水引」などが印刷してあるものの総称です。

『内のし』と『外のし』の使い分けとして
『内のし』は直接商品にのし紙にかけてから包装する形態で、一般的には気持ちを控えめにする場合使います。
『外のし』は包装紙の外側にのし紙をかける形態で、一般的には気持ちを強調したい場合や贈り物を持参する場合に使います。
このあり方は、用途や地域性、持ち運びの経路等によっても違いがあるので、こうしなければというものではありません。

松河屋でご利用いただける「のし紙」の種類や一例をご紹介致します。

のし紙
(紅白無地のし)
のし紙 祝
のし紙 祝
(御中元、内祝)
のし紙 祝(御中元)
のし紙
(仏事無地のし)
のし紙 仏
のし紙 仏
(御供)
のし紙 仏(御供)
短冊
(御淋見舞、お見舞)
短冊 御淋見舞
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祝い餅

足型誕生餅
生まれてから一年目の初誕生は、古来より餅をついてお子様の健やかなる成長を祝う行事として行われてきました。

「足型」にするのは、一生歩いていけるようにという願いから。
「一升」のお餅にするのは、一生食べ物に困らないようにという願いからきていると言われています。

 

その餅をふろしきに包んで、お子様に背負わせて歩かせたり、踏ませたりして健康で力強く育って欲しいと願うことから「立ち餅」・「力もち」とも言われることがあります。

丸型帯祝餅
帯祝いとは無事にお子様が生まれますようにと願いを込めて妊娠5ヶ月目の戌(いぬ)の日に腹帯をする風習のことです。
戌の日に行うのは、多産でお産の軽い犬にあやかったとされています。


祝い餅 >> 足型誕生餅・丸型帯祝餅


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七五三

七五三は、十一月十五日に三歳(男女)、五歳(男)、七歳(女)の子どもを神社につれて参拝し、子どもの無事な発育を感謝して祝うと同時に、さらなる成長と健康を祈る行事として知られているが、そうした慣行の歴史自体はけっして古いとはいえない。
しかしその基礎になった伝統的な習俗は武家時代に男女三歳で剃っていた頭に髪をたくわえる“髪置き”、男児五歳で袴をはく“袴着”、女児は着物の付け帯をとって大人の帯を使う“帯解(帯祝い)”とされている。
十一月十五日に七五三として祝われるようになったのは、徳川幕府の三代将軍家光が、四男徳松(後の綱吉)の健康がすぐれなかったため、五歳の時の慶安三年(一六五〇)十一月十五日に、無事と今後の健康を予祝したことに端を発するといわれる。


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七草

《春の七種》
名 前 現在の名前 科 名
芹(せり) セリ科
薺(なずな) 薺(ぺんぺん草) アブラナ科
御形(ごぎょう) 母子草(ははこぐさ) キク科
繁縷(はこべら) 繁縷(はこべ) ナデシコ科
仏の座(ほとけのざ) 小鬼田平子(こおにたびらこ) キク科
菘(すずな) 蕪(かぶ) アブラナ科
蘿蔔(すずしろ) 大根(だいこん) アブラナ科
この七種の野菜を刻んで入れた粥を七草粥といい、邪気を払い、万病を除くといわれる。また、正月のおせち料理などで疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補うという意味合いもある。
現在のように粥にして食べるようになったのは室町時代以降らしい。

《秋の七種》
名 前 科 名
萩(はぎ) マメ科
尾花(おばな/薄(すすき)のこと) イネ科
葛(くず) マメ科
女郎花(おみなえし) オミナエシ科
藤袴(ふじばかま) キク科
桔梗(ききょう) キキョウ科
撫子(なでしこ) ナデシコ科

春の七草と違い、秋の七草は花が主となる。眺めて楽しみ、短歌や俳句を詠むことが古来より行われてきた。
この七草は、山上憶良が呼んだ下記の2首の歌が由来とされている。


 秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数ふれば 七種の花 (万葉集)

 萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花 (万葉集)

 ※瞿麦…撫子  ※朝貌…桔梗とする説が有力

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旧暦月の説明

陰暦の由来
日本では旧暦での月の呼称を『和風月名』と呼ぶことがあります。
その由来は諸説ありますが、一般的な説が下記の通りとなります。

1月 ~睦月(むつき)~
新年に、親戚・知人が往来して親しみ睦ぶという意味から「むつぶ月」を略したものと言われています。
「年端月(としはづき)」「太郎月(たろうづき)」「子日月(ねのひづき)」など、はじまりを表す別名を持つ始まりの意の月です。


2月 ~如月(きさらぎ)~
寒い季節、さらに衣を重ね着ることから「更衣着」、また陽気が良くなる事から「気更来」など、様々な説があります。
暦の上ではまだ寒い時期ですが、梅の花が咲くことから「初花月(はつはなづき)」とも呼ばれ、春の訪れが近いことを告げてくれます。


3月 ~弥生(やよい)~
日本書紀の中で使われている、草木いよいよ生い茂ることを表す「いやおい」が語源です。春を象徴して「花見月」「桜月」とも呼ばれ、散りゆく桜を惜しむ意味も込められています。その柔らかで暖かみのある響きは、古典の詩情に満ちた美しい季語のひとつです。


4月 ~卯月(うづき)~
「卯の花が咲く月」が語源ですが、一説には稲を植える月「植月(うえづき)」の略とも言われます。春から初夏にかけての心地よい季節で、この月だけ花の名がつくように、一年の中でも様々な日本の花が美しく咲き誇る季節を示しています。


5月 ~皐月(さつき)~
「早苗月(さなえづき)」の略と言われ、田植えがはじまる月です。通例では「五月」と書いてさつきと読み、初夏の爽やかさを感じさせますが、現在の6月頃にあたるため「五月雨月(さみだれづき)」「月見ず月」という梅雨の頃を表す別名を持っています。


6月 ~水無月(みなづき)~
6月といえば「梅雨」というイメージがありますが、現在の7月頃にあたるため、暑さで水が涸れつきる、水の無い月とされます。「風待月(かぜまちづき)」「常夏月(とこなつづき)」とも呼ばれるように、一年の中でも盛夏を象徴する季語のひとつです。


7月 ~文月(ふみづき)~
七夕のために貸す文をひらくという「文彼月(ふみひろげつき)」が語源とされます。つまり文月の「文」は七夕飾りの短冊に願いを書き入れること。天の川での織姫様と彦星様の再会を想いながら、短冊に願いを込める。そんな情緒が潤います。


8月 ~葉月(はづき)~
現在の9月頃なので、木の葉が紅葉する様子から、葉が落ちる月とされたようです。同じ意味で「木染月(こそめづき)」や仲秋の名月から「月見月」など、秋の訪れを表す月ですが、やっぱり8月といえばまだ暑い夏、涼を求めて「秋風月」とも呼ばれます。


9月 ~長月(ながつき)~
夜が長くなる頃なので「夜長月」を略したもの、また秋の長雨から来ているという説もあります。「菊咲月(きくざきつき)」「紅葉月(もみじづき)」「梢の秋(こずえのあき)」「稲刈月(いねかりづき)」「紅樹(こうじゅ)」など、彩り豊かな季節だからこそ、呼び名も色合いに満ちています。


10月 ~神無月(かんなづき)~
この季節、諸国の神々がみな出雲に集まるため、神がいなくなるという説から名付けられました。ですから、出雲地方では、「神在月(かみありづき)」と呼ばれます。現在の11月頃なので、「時雨月(しぐれづき)」「初霜月(はつしもづき)」という別名もあります。また、新穀を神に捧げる「神嘗月(かんなめづき)」とも言います。


11月 ~霜月(しもつき)~
「霜降月(しもふりづき)」の略とされます。また、神無月で出かけた神が帰るため「神帰月(しんきづき)」という名も。
現在の12月頃なので、「雪見月(雪見付き)」という本格的な冬の到来を感じさせる別名もあります。


12月 ~師走(しわす)~
年の暮れの慌しい季節です。この時期は師も忙しく走り回ることから来たという説と、一年の終わりを表す「巣立つ月(しはつづき)」から来たという説があります。


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五節句

五節句について
五節句とは『人日(じんじつ)』、『上巳(じょうし)』、『端午(たんご)』、『七夕(しちせき)』、『重陽(ちょうよう)』の五つを言います。


古くには節句は『節供』と書き、江戸時代はこの五節句の日が法制化された現在の祝日に当たる式日とされていました。
この制度は明治6年に廃止されましたが、今でも年中行事の一環として定着しています。
五節句の日付は人日を除き、月と日が同じ奇数となっております。これは古来中国からの考えで、奇数は『陽数』であり、これが重なる日はめでたいという事だそうです。


人日の節句
旧暦正月七日の称。
文字通り「人の日」。由来については東方朔の『占書』に見える中国の古い習俗で、正月の一日から六日までは獣畜を占い、七日に人を占うところからとしている(『国語大辞典』)。
江戸時代、人日は幕府の公式行事となり、将軍以下が七草粥を食べて祝った。
「七草粥」は正月七日の朝に、春の七草(芹・なずな・御形・はこべら・すずな・すずしろ・仏の座)を入れた粥を食べ、一年中の無病を祈る。


上巳の節句
旧暦三月三日の称
旧暦三月の「上旬の巳の日」のこと。五節句に定められたのは、江戸時代になってからである。
古来中国では、この日に川で身を清め不浄を祓う習慣があり、これが平安時代に取り入れられ、貴族の間ではこの日に陰陽師を召して祓をさせ、祓の時にもちいた紙の人形に穢れを移して川や海に流し、不浄を祓った(上巳の祓い)とされる。三月の節句に紙雛を川に流す「流し雛」の風習は、現在でも各地に残っているが、これが雛祭りの源流とされている。
江戸時代以降、上巳の祓は雛祭りとして急速に庶民の間にも広まり、後に上巳は三月三日の雛祭り、桃の節句をさすようにもなった。


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端午の節句
五月五日は端午の節句である。端午は「月の初めの午の日」の意味。したがってもとは五月に限るものではなかったが、中国の漢代以後、五月は午の月、午は「ご」で五に通じるので、五の重なる五月五日を端午の節句としたのが始まりである。
日本には奈良時代に伝来、中国の由来に加え、日本では田の神を迎える斎戒沐浴の月としていたことが、五月五日を特別の日とする素地になった。
この日が正式に男児の節句となったのは、江戸中期に女児のお祭りとする雛祭りに対比したことにもよるが、武家社会において菖蒲(古くは“あやめ”と呼んだ)が尚武(武を尚ぶ)の語に通じるとして、あやめ兜を戸外に飾ったりするなどこうした武張った風習にもよる。
明治六年に、端午の節句は公の儀式としては廃止され、一時は民間でも廃れていたが、明治の末頃から再び行われるようになり、東京では、四月二十五日頃から鯉幟が青空に舞う風習が見られるようになった。
大正時代を経て、昭和の戦時中は厳しい耐久生活で年中行事どころではなく、戦後になり同二十三年、晴れて五月五日は「子供の日」として国民の祝日に制定された。


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七夕の節句
旧暦七月七日の称
七夕とは旧暦七月七日の夜のこと。七夕の行事は中国から伝来した伝説や行事と、日本古来の習俗が複合して今日に至ったとされている。
その伝説は奈良時代に中国から伝来。牽牛と織り姫がこの夜天の川を渡って、年に一度の逢瀬を楽しむというロマンチックな伝説である。乞巧奠(きこうでん)の行事はそれ以前に伝来しており、七月七日の夜に供え物をして機織りの仕事を司る織女星に技術の向上を願うもの。七夕と書いて「たなばた」と読ませるのはこれに由来している。
日本古来の「棚機つ女」は、神を迎えるために機を織る乙女のことで、後に女神として人々の災厄を祓った。
笹竹を立て、五色の短冊に詩歌を書いたり、手習い事の上達を願う習俗は、江戸時代に五節句のひとつとして幕府の公式な行事になってからのことである(明治六年に公式行事としての七夕は廃止された)。
もうひとつの流れとしては、七月の盆の先祖祭りにつながるもの。お盆の前に穢れを祓い清める日本固有の民族行事とされる。


乞巧奠(きこうでん)
「年中重宝記之三 秋の部」から。
七夕に香花を供え、五色の糸を竿にかけて祈ると三年以内にかなうという。


七夕のその他の習俗
ホオズキを七夕竹に吊るすと、裁縫や字がうまくなるとされている。
たらいや洗面器に水を張り、星空を映す。牽牛と織り姫のふたつの星が映ると恋は成就するとされる。


重陽の節句
旧暦九月九日の称
古来中国では易でいう陽数の極みである九が重なることで、重九ともいい大変めでたい日とされた。
邪気を祓い長寿を願って菊の花を飾り、菊酒を酌み交わして祝ったとされる。「菊の節句」ともいう。
日本では、平安時代の初めに宮中の年中行事となり「観菊の宴」が催された。菊花を浮かべた酒を酌み交わし、長寿を祝い、群臣に詩歌を作らせたという。江戸時代には五節句の一つに制定された。

「菊」と重陽の節句
《菊酒》
重陽の節句を「菊の節句」と呼ぶのは、中国の菊酒の故事に由来している。その故事とは、昔河南省の南陽に甘谷があり、その山上にたくさん菊が生えていた。谷の途中30軒あまりの家は山上より流れる谷水を飲むため、上寿は百二十~三十歳、中寿は百余歳、下寿は七十~八十歳を保ったという(『芸文類聚』)。
実際に中国の古代の菊は鑑賞より実用の用途の方が強く、最古の漢方書『神農本草経』に、めまいや眼疾、また耐老延年の薬として記載されている。
日本でいう菊酒は、菊の花を浸した風流な酒をいうが中国では菊花を使用して実際に酒を作った。
『万葉集』には百六十種もの植物が詠まれているが、菊の歌は一首もない。理由として、菊は奈良時代に中国から伝来しているが、まだ一般化されていなかったことと、前述した鑑賞花としてよりも薬酒の花で、しかも不老長寿の霊花としてもたらされたからと推測できる。


《着せ綿》
平安時代に王朝人が菊酒以外の菊の行事として考え出したひとつ。
九月八日に菊の花に真綿をかぶせ、翌九月九日の朝、その露を含んだ真綿で体を拭うことで、老いを拭い去り若返りをはかるというもの(『芸文類聚』の故事にあやかったとされる)。
『枕草子』には「九月九日は、暁より雨すこし降て菊の露もこちたく、おほひたる、綿などもいたくぬれ、うつしの香も、もてはやされて、つとめて(早朝)はやみにたれど、猶くもりて、やゝもせば、ふりおちぬべく見えたるもをかし」と記されている。


《菊合わせ》
平安貴族の行事で重陽の節会に行った歌合わせ。
右方と左方の分かれ、それぞれに菊の名所の名を付けた州浜台を出し、歌を競ったとされる。


《菊の和歌・俳句》
秋の菊にほふかぎりはかざしてむ
花よりさきとしらぬわが身を  『古今集』 紀貫之


山びとの折る袖にほふきくの露
うちはらふにも千代は経ぬべし 『新古今集』 藤原俊成


菊の香にくらがり登る節句かな  松尾芭蕉


綿きせて十程若し菊の花     小林一茶


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二十四節気

二十四節気とは、太陰暦を使用していた時代に、季節と日付を一致させるために考え出されたもので、1年を24等分し、その区切りに名前を付けたもので、明治5年まで使用されました。
現在でも立春・秋分・冬至など季節の節目に使われております。

 立春(りっしゅん)2月4日頃・雨水(うすい)2月19日頃
 啓蟄(けいちつ)3月6日頃・春分(しゅんぶん)3月21日頃
 清明(せいめい)4月5日頃・穀雨(こくう)4月20日頃
 立夏(りっか)5月5日頃・小満(しょうまん)5月21日頃
 芒種(ぼうしゅ)6月6日頃・夏至(げし)6月21日頃
 小暑(しょうしょ)7月7日頃・大暑(たいしょ)7月23日頃
 立秋(りっしゅう)8月7日頃・処暑(しょしょ)8月23日頃
 白露(はくろ)9月8日頃・秋分(しゅうぶん)9月23日頃
 寒露(かんろ)10月8日頃・霜降(そうこう)10月23日頃
 立冬(りっとう)11月7日頃・小雪(しょうせつ)11月22日頃
 大雪(たいせつ)12月7日頃・冬至(とうじ)12月22日頃
 小寒(しょうかん)1月5日頃・大寒(だいかん)1月20日頃
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六曜

冠婚葬祭などの日取りを決める際によく使われます。
「結婚式は大安の吉日で」とか「友引なので、葬式を繰り上げよう」といった事が多いです。

この「大安」、「友引」などは、古代中国の「六曜」(ろくよう)という暦の考え方にもとづいており、三国志で有名な諸葛孔明が戦いの際に吉凶の日を知るのに利用したことに端を発しているという説があります。
この六曜が日本に伝わったのは14世紀頃といわれ、江戸時代末に人々の間で流行したとされます。

現在使われている六曜のそれぞれの日には、下記のような意味があります。

先勝(せんしょう、せんがち) 午前が良く、午後は悪い。
友引(ともびき) 正午のみが凶。
先負(さきまけ、せんぶ) 午前が悪くて、午後が良い。
仏滅(ぶつめつ) 1日じゅう最凶の日。
大安(だいあん) 1日じゅう良い日。大安吉日という。
赤口(しゃっこう、しゃっく) 昼だけが吉。朝・夕は凶で災いに出合いやすい。


本来は中国で、戦や争いごとの吉凶の日を占うものでしたが、次第に日本では日常生活全般に用いられるようになりました。

なかでも「友引」は、その文字の連想から「友を引く」との意味に取られるようになり、葬儀などの弔事が避けられるようになったそうです。

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